アーサーを二重人格者として読み解く

『ジョーカー』をだいぶ前に見たんだが、ENDまでの2、30分ずっと涙が止まらないの。
これにこんな感動していいのかという迷いもあるが、出るものはしょうがない。
その時の感動について、どこかに誰か書いてないかと漁ってるがどれもイマイチなので、説明を試みる。
二重人格者とは説明のための補助線で、そういう設定だといいたいわけでない。


アーサーの中にもう一つの人格が生まれたのは物心もおぼつかない幼児期に養母の恋人からうけた虐待の瞬間だろう。
このもう一つの人格を後付けではあるがジョーカーと呼ぶことにする。
アーサーの「突然笑い出す病気」は、奥に潜むジョーカーがその時の状況を理解した上で本当に笑っている。少しも可笑しくないアーサーはそれを必死に押し留めている、というのがあの奇妙な笑いの正体だ。
映画の大きな転換点である、3人のサラリーマンを撃ち殺すシーン。
弱い立場である女性がにやにや笑いの酔った男たちに取り囲まれ危機的状況にあるが、あれはかつてアーサーが受けただろう虐待の状況を思い起こさせるに十分であり、あそこで発作が起こるのには強い根拠がある。そしてだからこそ殺したのだ。
かつて自分を虐待した男に、その時は持っていなかった力(銃)でもってジョーカーは復讐を果たした。
それが逃げた一人を執拗に追って背後から銃弾を何発も撃ちこむほどの怒りの正体である。
もちろんこのような道理がその時のアーサーにはわからない。なぜ笑うのか、なぜ撃ったのか自分で説明をすることはできない。
それを理解しはじめたのは映画の後半、震える手で自分の出生の秘密に辿りついてからだろう。
自分自身のよって立つ根拠が失われ、新しい地面を手探りで確かめながら進んでいく。
シングルマザーの家になぜ行き、なぜ殺さなかったのか。あれは自分で自分についていた噓、その虚構性を自ら暴きにいったからだ。
そしてこの映画を通してアーサーの為した偉大な仕事は「自分自身を完全に理解すること」であり、そこに感動の源泉がある。


コメディアン出身の監督で暴力や根拠不明の怒りをテーマにしてるのが北野武である。
これほどの感銘はおれにとって『その男、凶暴につき』以来であり、あきらかに関連がある。
そのたけしが体験したものとして記憶に残っている話があって、学生の頃暴力教師に生徒が一列に並ばせられ、順に張り倒されていくという状況になった。その時自分の番を待っている間の恐怖の中でたけしは急にその状況を俯瞰する視点を得た、という。自分自身に起こることを外から他人事として眺めることでその恐怖から逃れたのだ、と証言している。
この体験がコメディアンとしてのたけしの才能の開花に一役買っているのは間違いない。
チャップリンの言葉にかければ、「クローズアップでみれば恐怖でしかないものがロングショットではバカげた事」という視点。
単に俯瞰するだけなら簡単だが、そこに自分自身が含まれるという条件がつくととたんに難易度は跳ね上がる。それは常人にはとうてい不可能で、ほとんどそれは病気として現れてしまうと思われる。(たけしもまた奇妙な癖を持っていることで有名)
アーサーの中に生まれたジョーカーとはこの「自分自身を含めた世界を俯瞰する視点」のことに他ならない。


ラストシーン。
この物語全体を俯瞰する人物が登場する。ここまで語られた物語が事実であれ虚構であれ、この悲しい物語に少しも感情移入していない人物。
上下に見切れるほどのクローズアップで捉えられた表情が忘れられない。