美しい人を見た

決して熱心に見てきたわけでもなく、でも気づいた時は自宅のテレビで、時々は出先の街頭テレビなんかで彼女の物語をそれなりに追ってきていたのだけど、まさかこんな結末を目撃することになるとは思わず。

昨日あらゆる望みが断たれた彼女に今日のリンクで得られるものは何もなく、もはやそこに立つ必然性さえないように思えた。
起き抜けの、冴えない目の前で繰り広げられたそれは、栄光をつかむために戦う者たちの真剣さ、そういうのとはまるで違う、とても静かで心地よく、ただただひたすらに美しいもの。
「美しい」なんて形容これまで一度もした記憶がなく、そういう言葉があることをただ知っているというだけの、無教養な人間なのだけど、美しいものがこの世に、あるいはおれの心にそんな感受性があったのだ。都市伝説じゃなかった。

しかしいったいぜんたいこの謎の感動はなんなのか。昨日の無残な失敗もその他あらゆる過去の出来事がこの結節点に集約され、その意味付けがすべて作り変えられてしまう。あのフモフモコラムのエントリーがまさか壮大な前フリになるだなんて。。このおそるべき力。
そもそも今日おれは見るのをやめようと思ってたんだ。これ以上とても見ちゃいられない。それは殆ど悪趣味といっていいもののような気がしてたし。でもフモフモ師が必死になんとか作りだした物語を読んでこれなら乗れそうかなと気が変わっただけ。
いつになってもその表情から、あどけなさの消えることのない彼女の感情は、見るものにそのまま直達する。良い感情ならもちろん良いけど、それがネガティブなものだと見てるほうもたまらない。こっちにも相当な負担が掛かるのです。

なぜ彼女は演技が下手クソなのか。プログラム中の彼女の演じる表情はちょっと笑ってしまうことがあるほどだけど、それはこのあどけなさと関係しているのだと思う。彼女は彼女自身をしか演じることができない。子供がそうであるように。
勝負師としては致命的かもしれないその特性は、しかし一方で多くの人を魅了する。
いまだにジャンプの種類の見分けもつかないおれが見たいと思っているのは、演じられたイミテーションではなく本物のそれなのです。
そのひとつの到達点を見た。

いまノクターンの旋律とフモフモの敗北がとても味わい深く。