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『この世界の片隅に』の覚めた夢

面白かった。
すずさんの主観に没入して観る世界は美しく、心地よく、そしてなんでもないようなシーンにこみ上げてくる瞬間が何度もあった。これはもう完全に構成の勝利というか、舞台装置が出来上がった瞬間からもう完全に監督の手のひらの上。後はなされるがまま。それはもう想像以上の効果なのです。
でも観終わった直後の感想は「惜しい」だった。
なぜこんな展開にしてしまったのか、と。具体的にはすずさんが晴美と右手を失って以後の展開。多分この辺で醒めてしまって以後の話についていけず、筋を見失ってしまった。
で帰って色々ネットで調べて考えた結果として、ここでは他でもありえた可能性について書いてみたい。



まずおれは原作をとある場所ですでに読んでいて知っていた。非常にテクニカルかつ不思議な魅力に満ちた「あの感じ」を知っていたのだが、でも多分そこにあったのは三巻本の二巻ぐらいまでで、右手を失うような展開になることは知らなかった。
そこに予断があったことは間違いない。勝手にこの作品はこんな感じの主題というかメッセージがあるんだろうという予想とともに映画を観ていたので、それが裏切られたかっこうだ。まぁ原作がそうなるんだから本来文句をつけるべきものではない。
ところがどうもこのすれ違いはおれ個人だけの問題ではない。原作者と監督との間にもすれ違いはあった。
原作者のこうの史代は自分なりのやり方でもって「あの戦争」を描きたいと思い、それを描くのに都合のよいキャラクターとしてすずさんを造形していったのだという。
対して片渕監督はすずさんが象徴し体現しているような市井の人々の「日常の機微」を描きたいと考えていて、しかしそれを例えば現代でやっても観客に届く、刺さるものにするのは難しい。一本の映画にはなりそうもない。そこで見出したのが『この世界の片隅に』なのであり、つまりはすずさんのようなキャラクターが最も映え、強調できる背景としての「あの戦争」なのだった。背景はあくまですずさんを主とした従の関係。戦争のみならずあらゆるものがそのための道具立てなのである。
だから少なくとも。
監督が描きたかったものではないんだと思う。すずさんから晴美と右手を奪うような展開は。



替わりに白木リンのエピソードをきちんと描いていたらどうだったか、とやはり想像したくなる。
筋はラブストーリーのほうに大きく重心が変わる。それでも傑作になったことは間違いないと思う。というか中盤までの積み重ねで実はその後どうなろうとこの物語がすばらしいものであることに変わりはない。なぜならすずさんはそれだけの実在性、確かにそこに生きていたという実感を観客に与えることにこの上なく成功しているのだから。実際にそうであった事実としてドキュメンタリーと同じく観客は受け入れざるをえないのです。
仮にラブストーリーであったとしたら、それは源氏物語に匹敵するようなこの世のものとは思えないとても美しいものになったかもしれない。
「この世界」は「あの世」でもあるとおれは持っている。
なぜならこの世界には「飢え」がない。確かに食べ物は少なく、すずさんに対して「痩せた」というセリフもある。だがやつれた顔に描かれるわけでなく、この映画から受ける空腹感はぼくらが昼飯を抜いた時に感じる空腹感と大差ない。だからこそ食べ物を巡る話が笑えるのであり、すずさんが砂糖を水に落とすエピソードをたんなるドジに回収することが出来る。『火垂るの墓』の清太が同じことをしたらおそらく生きては帰れまい。飢えにはギャグの入り込む余地はない。
この作品の上品さ、は飢えを排除することで成り立っている。
飢えの排除という意味でもう一つ見逃せないのが、水原の誘いをすずが断わることができる、という事実。
水原が北条家に泊まりにくるというのは時代性を考えてもタダゴトではない。白木リンのエピソードが省かれているため、あそこで周作がすずを差し出す決断をする理由は彼らへのかすかな嫉妬と、もう一つは水原のタダゴトでないその決意の二つしかありえない。
軍人となることが、死ぬことが運命付けられている水原のすずへの思い。これを断わることができるのは、そしてまだ押せそうなのに脈があるにもかかわらず水原があっさり引き下がることができたのは、作者が女だからという以外に考えられない。これを飢えと表現するのは違うかもしれないが、それと同じだけのどうしようもなさは状況証拠的には間違いなくあったはずなのに。
だが映画では(もちろん原作でも)そのようなものは存在せず、これは美しいラブストーリーを織り成すための重要な場面となっている。


源氏物語は、飢饉が頻発し政治は乱れるとんでもない時代背景の作品でありながら、そして主人公は政府の要職についているという設定にもかかわらずそのようなものは一行たりとも顔を出さない。なぜなら作者が宮廷に住む女性だったらだ。彼女らにとっての最重要な関心事は恋愛であり、誰が誰にどうして見初められたとかそういうことが自分の人生に最も影響を与える大事なことだった。仮にそのようなことが書かれたとしてもそれは恋愛を盛り上げる道具立て以上のものにはならなかっただろう。
『この世界の上澄みで』
それが源氏物語の世界である。天上の、やんごとなき人々の日常。それは庶民的立場から見れば「あの世」に近しい距離なんだと思う。
そもそも大破壊の日、破滅の日が来ることを知っている観客がその断絶の向こう側を覗き見る、という行為があの世の構成に近しい。
だからこそ美しいのだし、ラブストーリーであったとしてもなんら問題はなかった。


ただこの映画をラブストーリーとして褒めるのはほとんど批判に近い気もする。この作品はもっと根幹を揺るがすような、新しい倫理を目覚めさせるようなそういう可能性を感じさせる。



「治世の能臣、乱世の姦雄」とは三国志の英雄曹操を評した言葉で、昔の中国人の歴史観というかものを見る目というのはそら恐ろしいほどに冷徹かつ深遠極まりない。
もし同じ目でもってすずさんを評するなら「治世のノロマ、乱世の女神」といった感じになるのではないかな。
対照的なのが小姑の黒村徑子である。戦争が始まる前は「モガ」としてこの世の春を謳歌してたはずの徑子にはその後次々と不幸が襲い掛かる。そのように描かれる。なぜ徑子が凋落していってしまうのかというと、それは戦争前の時代には美的特質とされていた徑子の様々な個性が戦時下において逆転しマイナスに作用し始めるから、ではないかと思うのだ。
最初すずさんにきつくあたっていた徑子は少しずつ感化されついには大きな理解者にまでなる。だがもし他でもありえた可能性として戦争がなかったならば、そのままの日常が続いていたのならば、果たして徑子はすずの個性を認めただろうか。その美的特質を見い出せただろうか。自分では何も決定できない、ノロマで田舎くさい小娘に。
キリっとした顔立ちの、スラリとしたプロポーションを持つ徑子にもんぺはまったく似合わない。
だけどすずさんにはもんぺこそがよく似合う。彼女の個性を際立たせる。


「当たり前の事で怒って当たり前の事で謝りよる すず お前はほんとに普通の人じゃ」
「ずうっとこの世界で普通で…まともでおってくれ」


水原はなぜそんなにすずさんに惹かれるのか。当たり前が失われつつあるからだろう。失われつつあるからこそそれは光り輝く。
あっちの世界に片足つっこんだ水原からだからこそ・・・


この解釈は突き詰めるとちょっと残酷な、もしくはある倫理観をざわつかせるものがあって、実際に完成した映画にはあまりそぐわない。ただもしこれを主題にすえたならばあのような結末にはきっとならなかっただろう。すずさんに十字架を背負わす必要はなく、回避できたのではないだろうか。


「どこがどう良かったんか うちにはさっぱり判らん」


こういうことを想像せずにおれない。
なぜならこの映画には観終わった観客を気持ちよく帰してはくれない、ある種の呪いがかかっているのだから。