詩集『大阪のミャンマー』について

知人の出版した詩集を読んだので感想を書きます。
詩に触れることなどほとんどなく、まして詩集など初めて読んだのですが、詩というもののよさに開かれた感じがします。
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映像詩としての「大阪のミャンマー

タイトルになっている「大阪のミャンマー」という詩に対しての批評や感想などはネット上でたくさん読んだ。一見物語り的、散文的なこの文章がなぜ詩といえるのか、詩として優れていると評価されているのか。

大阪のミャンマー - B-REVIEW

この詩は3つの文章のまとまりによって構成されている。
1.「大阪のミャンマーはやたらに」~「その日暮らしのちっぽけな存在が、ミャンマーそのものだ。」
2.「ミャンマーはひとり」~「この川の両岸にしずかに佇んでいるテトラポットたちはみんな、ミャンマーだ。」
3.「ミャンマーは日本人であるが」~「それですべてがまるく、収まっている。」

1でミャンマーという青年の人となりが説明され、2である日の仕事帰りの様子が描写され、3でそれらを元にひとつの結論が導かれる。ロジカルな構成で使われる言葉の意味も明快、すらすらと引っ掛かりなく読めてしまう。しかしこれが詩として受け止められるのは2の描写の仕方、その技巧によっている。
ここで描写されているミャンマーを素直に表現すると次のようになる。
「仕事帰りのミャンマーは橋の上で立ち止まり、川を見つめたり物思いにふけりながら、夜になるまで佇んでいた。」
出来事としてはただこれだけのことが、独特の表現によって言い換えられる。
特に「夜になるまで佇んでいた。」の「夜になるまで」を「水鳥が飛ぶ。夜には色が変わる。」という風景描写で、「佇んでいた。」を「この川の両岸にしずかに佇んでいるテトラポットたちはみんな、ミャンマーだ。」に言い換えたところにこの作品の凄みがある。

第一にそれによってミャンマーを一切描写しないことに成功している。読者の視線は水鳥であり色の変わった川面であり川岸にたくさんおいてあるテトラポッドに誘導される。それはミャンマーから見た主観的な現実、に他ならず読者はいつのまにかミャンマーの視線に同期させられている。
第2にこれらの視線の誘導が映像作品におけるカメラワークや演出技法を容易に想起させる点。現代人は映像作品に日常的に親しんでおり演出意図などを瞬時に理解することができ、それは現代の教養であると言っていい。カメラが急に水鳥が飛び立つのを映し次の瞬間に夜の風景に切り替わり時間が省略されても混乱することはないだろう。この詩作品全体を通しても言えるが話者の視点が次々移り変わっていく様(主観、客観、強い感情移入と突き放した概観など)はカメラワークにおけるズームアップ、アウト、パンなどと同様の効果をもたらしている。
第3に本来「しずかに佇んでいる様はまるでテトラポットのようだ。」と形容されるべきところを「しずかに佇んでいるテトラポットたちはみんな、ミャンマーだ。」と逆転させたことがそのまま3の結論部分へと繋がり、強い説得力を与えていること。主客の逆転と擬人化によって大阪と淀川とミャンマーとが渾然一体となり、互いが互いを支えあう関係性へと昇華される。そもそもミャンマーとは国名でもあることが思い出され、ここに物事の大小が捨象された特異な世界観が提示される。

ミャンマーの孤独な数時間を手付かずの空白として読者は受けとる。前半部分で示された人となりはその空白を様々に想像ささせる刺激となる。「連と連とが響きあう」という詩の原理に従ってそこから膨大な情報を展開できる。
俳句に季語や古典の教養が必須であるように、展開には(もちろん圧縮にも)教養が必要だが、現代人が知悉している映像作品とその技法がここでは作者と読者に共有されており、その圧倒的な情報量が確かな手応えをもったリアリティある空間を可能にしている。

そして同じ構成は詩集全体を通しても見ることができる。
第4章「わたしの龍」を1つのクライマックスとして、そこで示された喪失を巡る物語として前半後半を再構成でき、最後の「ラーラーバイ」で読者はさらに不可思議な世界の開闢に立ち会うことになる。

結論

長編小説を読み終わった後のようなずしりとした手応えある読後感でした。
でも短いのでさらりとも読める。何度も読んでいると悟りが開けそうです。