映画『新感染』 新感性への拒絶

『新感染』観ました。
とても新しい感覚で作られたゾンビ物で、面白いといえば面白い画はたくさんありました。観終わって評価をみても賞賛ばかりで、特に海外では賞など獲っていたりかなり高い評価がされてるようであります。
しかしおれはこの映画の中のヒューマンドラマの部分には一切乗れなかった。この監督は頭がおかしいんじゃないかと思ったんだけど、どうもおかしい(少数派)のはおれのほうだったようなので、ここではこの映画の嫌なところを突き詰めてみる。以下前編ネタばれ。

リアリティレベルのアップダウンが激しい

最初はやっぱりゾンビの恐ろしさを丁寧に描きます。感染してる人が一人列車に乗り込んで、その人が発症して死んで乗務員に噛み付いて新しい感染者をつくるまで、が時間をかけて描かれます。が、その次からの感染は秒単位です。爆発的に感染しながら雪崩のように襲い掛かってきます。その襲い掛かってくる画は非常に新しくかつ迫力に満ちていて凄い。この感染時間の短縮、省略はこの画を作り出す必然性から生まれたものでそれはいいのです。付け加えるとこの映画のゾンビのほぼ全てが全力疾走できる=全員が五体満足で四肢の欠損がないのは、噛まれるとあっという間にゾンビになって、そしてゾンビはゾンビを食べないの法則に則ってすぐに食べるのをやめてしまうからです。ゾンビというより吸血鬼に近い。
で中盤、男3人とそれぞれの愛する女たちとが列車の中で離れ離れになってしまったことが判明するシーン。なにやら男たちが目配せをして何も言わずに紐とかを準備し始める。あーなるほどと。これはあれだ、走ってる列車の上に登って色々やる例のアクションが始まるんだなと思ったら違った。紐とかを腕に巻いて噛まれないようにしてほぼ素手に近い状態でゾンビがわらわらいる車両に殴りこみをかけようというシーンだったんですね。
いやちょっと待てと。それは無理だろーと。
要するにマンガ的に熱い展開として今まで逃げてただけだけどここで初めて立ち向かうという勇気として描くんだけど、どー考えても無理筋なんですよ。それまでのゾンビの恐ろしさからしてここで立ち向かう決心は本来できない。明らかにここでリアリティレベルが大きく変わった。マンガ的な方向に。結果少なくともオレにとってゾンビが怖かったのはここまでになってしまった。
ギアを変えること自体はいいんです。ここ以降を同じリアリティレベルで、つまりマンガ的方向でやってくれればいいんだけど、その後ちょいちょいリアリティを出そうとしてくるのが好かん。つまり場面場面を引き立たせるためだけにギアをしょっちゅう変えてきやがる。どうもこれは若いやつは簡単についていけるようなんだけど、おれは年寄りなので付いていけない。少なくとも実写でやっちゃいかんだろうと。ゾンビは普通に人間が演じている。嫌でもリアリティはでてしまう。

割り切り方が凄い

上に関連することとして、あっという間にゾンビになってしまうもんだからグレーゾーンがほぼない。重要人物は噛まれてもすぐ発症しない時間のゆらぎの中にいるけど、名も無き人々は人間とゾンビに明確にかつあっという間に切り替わる。人間は結構助けようとするけどゾンビは何の感慨もなく足蹴にできる。立ち向かうことを決心した男たちはバットをフルスイングできるし、チョークスリーパーから首を簡単にへし折ることができる。
安全地帯と危険地帯を分かつドアによる二分の仕方もスパーーンと真っ二つ。ドアを閉めたら勝ち、という謎の割り切り感。
終盤に差し掛かるところで、ずっとすれ違っていた主人公と娘が心を通わせるシーンがある。いかにもな感じのメランコリックな泣かせの音楽が流れる。と背景にはドアをガンガンたたくゾンビの姿が・・・
一メートルに満たない距離で膜一つ隔てた向こうに、さっきまで人間だった人らがいるというのにいったい何をやっているのか。
ここでおれの中に立ち上がった強烈な違和感について例える。
心のすれ違いがあった父娘がとあるレストランで食事をしながらの会話の中で心を通わせるセリフのやりとりがあったとして。それにあわせたベタな音楽が流れてるくる中、ふと背景に目をやると食卓に提供するための豚を屠殺している残酷な場面が・・・
完全に意味変わってしまいますね。
おれの感性としてはとてもじゃないけど乗れないんですよ。この泣きの場面に感情移入することはできない。監督はそういう別な意味づけを与えるためにこれを背景に配置したわけでは全然ない。その意味することはせいぜいこんな危機的な状況にも関わらず、いやだからこそ心を通わせるシーンが際立つ、程度の意味合いでそしておそらく殆どの観客もなんとも思っていない。
そこでドアをガンガンたたいてるゾンビはついさっきまで同じ列車に乗っていた人間であり、それぞれに生い立ちとドラマがあったはずの人たちなのだ。でもここではただの背景であり「差し迫った危機」というラベルに過ぎない。

自己犠牲というモチーフの浅はかさ

映画の中で何度も繰り返されます。初め自分さえ良ければいいという自己中心的な主人公が逃げてくる人を無視して列車のドアを閉めたことは倫理的に非難されます。ゾンビの爆発的増殖と全力疾走ぶり、そもそも最初にグレーゾーンの人間が乗り込んだことで感染が広がった経緯を知ってる身からすると閉めたほうがいいだろ、と思うんだけど、でもそれがモチーフなので。以後主にもう一人の主人公格のレスラーとの交流の中で娘を助けてもっらたりしながら、主人公は人格的に成長し最後は美しい自己犠牲によって娘を守る。
のだけどこの監督の自己犠牲に対する洞察というか思想は一切深みのないジャブジャブの浅さのまま終わるんです。おれが一番頭おかしいと思ったのはこの点。
それを最も象徴するのが最終盤、車掌が一人の乗客を助けるために走り出した列車から降りて助けにいって案の定失敗し、ゾンビに食われてしまう場面。
無駄死に、犬死に、としかいいようがない。さんざ自己犠牲を語ってきておきながらのここにきてのこの無意味な死はいったいなんなのか。
そもそもこの映画において最も勇敢な行為はどれか、と言われればそれは個人的ながら車掌の仕事に決まっていると思っている。
この映画の中では彼と乗務員だけが社会的指名を帯び、このパンデミックにあって最後まで自らの社会的使命を果たし続けた登場人物は彼だけである。
列車を運転し乗客を安全な場所まで送り届けることができるのは彼だけであり、そのためにたった一人で使える電車を探しに行き見つけ動かしていた最中だった。ここでたった一人の乗客がゾンビに追われてきているのを発見したとして、すでに動いてる列車から降りて助けに行くべきだろうか。それは美しい自己犠牲であろうか。
他の男3人が示した蛮勇はそれぞれ自分の女や妻や娘のためであり、利己的行動として理解できる範疇にある。一歩拡大した自己の利益にかなうものでしかない。もちろんそれですら人間はできないことが多いが、むしろこういう勇敢さとは動物なら普通にできるはずのものでもある。
一方人間が社会的使命を果たすことは本人、近親者を越えて全体の利益に資する。これを理解し選択的に実行することは人間にしかできない。
あのちょっとまぬけ面で、ひょうきんな動きをした車掌の背中に漂う哀愁にこそ注目すべき何かがあるはずなのに、哀れこの車掌はこのドラマの主要人物ではなく、最後まで生き残っては困るという脚本上の理由によって無意味な死を負わされる。
・・・自己犠牲について語る資格なし。

宮崎川上問題の意味

ふいに理解できました。
完全におれは宮崎駿の側に立って、けしからんと眉をひそめるジジイ側にいるなと。
見えてる世界がもうだいぶ違ってきてる。デジタルデバイドや古い感性と新しい感性の衝突として感受した。
川上量生がプレゼンしたゾンビの気持ち悪さとは人間的意味が剥奪されてるゆえの気持ち悪さで、それは突き詰めると神の視座に通底する。
『新感染』で最初に主人公が倫理的に非難される行為をするのをみて、これは『ミスト』みたいな展開になるんじゃないかという嫌な予感がしたが(監督は意識していたらしい)『ミスト』ではカルト宗教がもう一つのモチーフになっていて、でこの監督のアニメーション作品がやっぱりカルト宗教だという。韓国はキリスト教圏だから何か相通じるものがあるのかしらん。